2007年8月
「夜明けの決断」  生藤哲治  
「何気ない日常」 西川(小野寺)公子 「食べてばかりのボク」 山内隆治
「影絵の魅力とこの展示の意義」 佐々木典明 「「生きる」を学ぶ−ヒロシマにて」 松井佳子
「雷雨 」 高林真澄 ■「来年もまた」 浜崎ゆう子

「来年もまた」

■KS(影絵の制作の略)・浜崎ゆう子

 お参りを済ませ平和公園から元安橋の対岸を眺めると、明かりの灯った影絵ボックスがぽつんとあるのがわかります。約2ヶ月間、家にこもってあれだけ紙や木枠やフィルターと格闘していたといのに、こうやって展示してみるとそれはあまりにも小さい・・・。思わずため息がでます。でも橋を渡り影絵に近づいていくと、その周りにはたくさんの仲間たちが当然のことのようにいて、思い思いに影絵を見守ってくれています。そしてそれに引かれるように足を止める人々。影絵を見ながら懐かしそうに話を始めるお年寄りや恐々と絵に近づく小さな子どもたちがいます。そこで交わされるささやかな会話や笑顔こそ、この展示の最大の目的なのだと思います。3年目にして早くも続けることの難しさを痛感しています。そんな私にとって、8月5日・6日は、来年も作るぞ!と自分に再確認させる大事な機会です。初心を忘れず、広島の人たちの思いを忘れず、次にできることはなにか、ゆっくり考えてみたいと思います。な〜んてすでにもう、次回のテーマは決まりつつあるんですけどネ。来年もまたみんなで作り上げる影絵展にしていければと思います。

「雷雨 」

■KM(蔭のマネージャーの略)・高林真澄

 野外展示する「小さな祈りの影絵展」。パラパラの雨には遭ったけれど、一昨年、昨年と晴天に恵まれてきた。1週間前に「今年は雨が降りそう。テントを準備しては・・・」と心配する声も上がっていたが、「きっと大丈夫!」とお天道様を信じることにした。搬入の直前には台風5号も過ぎ去り、気持ちのいい夏の空が影絵を迎えてくれたが・・・。
 8月6日の祈りの日。夜明け前から、遠くでゴロゴロと雷が鳴り続けた。明け方5時30分ころから、ポツポツと降り始めた雨は、あっと言う間にバケツをひっくり返したような土砂降りに。急いで展示場に駆け付けると、影絵ボックスは、徹夜組の男性諸君の機敏な判断によりブルーシートで覆われ、作品はホテルのゆう子ちゃんの部屋へ避難していた。パラソルの下には雨を凌いでいる不安顔のゆう子ちゃんと西川さん・・・。
  式典が始まる前には雨があがったが、どんよりと怪しげな空模様は変わらない。最も参拝者が多くなる時間帯になっても、ブルーシートは外せないまま、とうとう祈りを捧げる8時15分を迎えてしまった。ホテルの作品たちも、シートの中で窮屈な思いをしたボックスも、祈りの時間を共有できなくて残念だったに違いない。
 「この状態では、ブルーシートに巻かれた大きな箱があるだけ。参拝する人に申し訳ない」。結局、ボックスと荷物置き場もスッポリ収まる巨大テントを調達し、再びご覧いただくこととなった。

 「8月6日は暑い日になる」と漠然と思い続けてきた。暑い夏の朝に原爆が落ち、熱線と爆風、火事、火傷で、さらに熱いアツイ1日になった。だから、広島の8・6はジリジリと日差しが照りつける暑い日になるはずと。
 当日・・・。何が起こったのか判断できなかった母は「とにかく家に」と、横川から爆心地の相生橋を通って向洋まで歩いて帰ったそうだ。祖母は、まさに投下地点となった島病院へ「見舞いに行ってくる」と朝早く出掛けたまま帰らぬ人となった。どんなにかアツカッタだろう。せめてアツサを共有することが慰霊になると考えていた。「何だか申し訳ない」。スッポリとテントの陰に包まれながら影絵展を見守った。
 
 今回のテーマは「なつかしい遊び」。幾万もの「命」は、その瞬間には遊んで楽しかった思い出さえも、心をよぎらせることができなっただろう。ボックスの中で光に映る無邪気に遊ぶ子どもたちの姿は、そんな人たちの一つひとつの幸せだった「命」の証を浮かび上がらせていた。「原爆で亡くなった妹が見える・・・」。ご覧になった80代半ばの婦人はそっと涙をぬぐっておられた。

 私はやっぱり、ボックスと空がテントで遮断されるより、頭上に太陽や月や星を抱く野外展示にこだわりたいなぁ・・・。

「影絵の魅力とこの展示の意義」

■HO(広島のお父さんの略)・佐々木典明

 始めて参加した「小さな祈りの影絵展」を見ながら20年前の「中国の影絵展(灯会)」を思い出した。 交流を始めた中国四川省の対外文化協会の会長から一通の招待状が届いた。 広州で開く「影絵展」を見てほしいとの要請であった。 一人、出かけた先は広州一の公園いっぱいに展開した四川省自貢市に伝わる伝統的な影絵が展示されていた。 影絵のルーツ説はいろいろあるようだが、関係者は四川省こそルーツと言う。 生活習慣から先祖の供養に関するものなどを影絵で表現したお祭りが今も省内各地に沢山伝わっていると言う。 提灯に貼った小さな魚や昆虫から色とりどりの民族影絵。 スクリーンに映し出される民話の影絵による劇場。 影絵を元にコンピューターで動かす巨大な龍や水鳥などが公園の丘や池、小川など自然を取り込んでフルに生かした大影絵展覧会だった。 直接見たことはないが青森のねぶたや秋田のまん灯などを遙かに凌ぐと思われるスケールだ。 テーマ性やストーリーのあるものから繊細なものからダイナミックな迫力で迫る妖怪や龍などディズニィーランドに負けないほどのエンターテイメントである。 一晩で、外国人観光客など含めて数万人が見物する。饅頭や焼き鳥などの屋台が並び、まるで日本のお祭りの夜店が所狭しと軒を連ねる。 なぜ、四川の影絵が広州で開かれるかは省政府の外商と同時に海外へのセールスを狙ったデモンストレーションでもあった。 小型ビデオに収め、帰国後、県の視線交流担当や幹部と誘致を検討した事がある。 残念ながら、果たせなかったが今でもこの四川影絵展は日本へ誘致すれば多くの観客を引き付けられるイベントに違いない。
 
影絵が持つ表現力は幻想的で宗教性すら秘めている。その手段を用いて原爆被爆犠牲者の慰霊と核廃絶を祈念する作品は被爆の悲惨や惨たらしさでなく、生活・暮らし・日常の中で捕らえようと言う発想も素晴らしい。親が子に祖父母が孫に何が描かれ訴えているかを話す姿に感動を覚えた。大切な、証言継承の一端を担った「小さな祈りの影絵展」は上記の中国の影絵展に匹敵する世界で最も小さいが持つ意味が大きなエンターテイナーある。今後の継続が大切になる。

 

「「生きる」を学ぶ−ヒロシマにて」

■JS(ジャズシンガーの略)・松井佳子

 「小さな祈りの影絵展」への参加は、ヒロシマという知らない土地と影絵の野外展示ということに対する大いなる好奇心と、ほんの少しの慰霊の気持ちからでした。ヒロシマで起こった現実は大きすぎて、心の中で少し茶化さないと私には受け止められず、ヒロシマへ足を踏み入れることができなかったからです。しかし、影絵展への参加をきっかけに、色々なことを少しずつ考えるようになりました。原爆投下だけではなく、世界中で起こった、起こっている理不尽な人間による愚行について、色々な角度で考えるようになりました。私は、あの日理不尽に原爆の火に焼かれ、生をまっとうする権利を奪われた人達や、他の様々な出来事で命を奪われた人たちを励ますことができるのは、戦争反対や平和を声だかに掲げることではなく、今、生きている私たちひとりひとりが精一杯、正直に生きることなのではないか、と考えています。生きる権利を奪われた人たちの分まで、理不尽に後遺症などに煩っている多くの人たちのためにも、健康な私たちは自分自身を大事にして、最大限に生きていかなくてはいけないのだ、と強く思うのです。

 私の影絵展への参加で、別な友人達とも少しの時間、戦争や原爆について考える時間を共有しました。こうやって、少しの間でも、過去に人が犯した過ちについて考える機会を持ち続けること、機会を作れるものならば作り続けていくことが、行く先の平和へつながっていくのではないか、と思います。

 「小さな祈りの影絵展」は、無力な私にも「考える機会を作るため」の労働のチャンスを与えてくれる場です。このような機会を与えてくれた友、浜崎友子、KP(陰のプロデューサー)、KM(陰のマネージャー)、小さな祈りの影絵展実行委員会のメンバー、影絵作りに参加した子供達と、この影絵展を通してつながっているすべての人に感謝します。

「何気ない日常」

■BJ(美術助手の略)西川(小野寺)公子

 62年目の今年、小さな祈りの影絵展は三回目を迎えました。今回のテーマは「子どもたちのなつかしい遊び」です。いつもの黒い影絵ボックスには、思いっきりたくさんの窓が開けられ、初めて聞く広島ならではの呼び名もありますが、なじみ深い遊びの数々が整然と並び、明るく窓を輝かせています。ボックスの両側には幼稚園の園児たちが作った影絵も2箇所。幼いながら原爆で亡くなった沢山の命を慰める為にはどうしたら良いか、先生の元で話し合って作った作品です。分かりやすい「言葉」と懐かしい「光景」が、見る方々の記憶を呼び覚まして、幼心に灯がともるかのように、お年寄りが懐かしそうに子ども達に遊び方を説明して下さったり、訳を読んだ外国人の青年が、自分の国にも共通する遊びがあると話してくれたりします。園児たちが自分の作った影絵を見に次々やって来て、満足そうなのも微笑ましい光景です。

 いつもながらの紙と糊とカラーフィルターで出来た、シンプルな作品です。内容だっていつにも増してわかり易く、小さな影絵に描かれた光景は、私たち見る者を一瞬のうちに、お腹が減った夕暮れ時の帰り道や、友達とさよならするのが淋しかった夕焼け空や、真っ白い雲が浮かぶ暑い夏の川辺へ連れて行ってくれます。今にも子どもたちの歓声や蝉の鳴き声が聞こえてきそうです。それでも私には何故か、鮮やかな色彩を放ちながら、和紙が複雑な陰影を重ねるのか、いつもより影が深く濃いようにも感じます。ゆう子ちゃんがこの影絵をかたちにするまで、何度も広島でお年寄りからお話を伺ったそうです。原爆で失われた平和な日常、その後の過酷な現実。それでも尚、忘れられない友達、兄弟姉妹との懐かしい遊びにまつわる思い出は、子ども時代の平和で穏やかな記憶の中から引き出されたものです。整然と並ぶ鮮やかな窓の一つ一つに、語って下さった皆さんへの畏敬の念、子どもたちの失われた命への祈りを感じます。ここに描かれた何気ない日常こそ平和そのもの。だからこそ私たちも、この影絵の前では、自分たちが子供だった頃の遊びの話を楽しく、心置きなく出来たのかもしれません。

 今年の広島は、いつものジリッと刺すような暑さはなく、8月6日の朝は激しい雷雨にも見舞われました。紙で出来た影絵は雨の中では飾ることが出来ず、急遽用意した巨大なテントの下での展示となりました。雨は平和祈念式典の前には上がり、その後は急速に回復して、いつの間にか日よけと化したテントの中でも、外でも、沢山の穏やかで楽しい会話がはずみました。

 「子どもたちの楽しい遊び」が再び失われることがないように。そして原爆によって二度と大切な命を失うことなく、平和な日常がどこにいても当たり前であることを、祈らずにはいられません。

「食べてばかりのボク」

■AP(あっくんのパパの略)山内隆治

 僕自身は、ぜーんぜんお手伝いできてないのですが、今年で3回目の小さな影絵展を毎回見せてもらっています。広島、大好きです。ほんとうに僕はお気楽にふらふらとしていて、「あの人いったい何?」とお思いの方もさぞ多いことでしょう。今年なんぞは、まず朝日ビル地下の「橙」で行われた壮行会に参加。店主の土井さんご好意のビールとおいしいお好み焼きをスタッフに混ざってさんざんご馳走になり、ドロン。影絵のセッティングができたころに「フムフム、出来とるな」と再び現れ。前歯の差し歯が取れたといっては歯医者さんに行き。お友達と遊覧船に乗り「いや、その橙は鉄板焼きもおいしいんですよ!」みたいな話をし。かといって、元安橋にいないときは、ほかの誰かに何かをご馳走になってたという。こうして僕の広島の思い出は毎年積み重なって行くのです。浜崎さん、来年もその次もね!そのうち、何か手伝うわ。

「夜明けの決断」

■TK(徹夜警備の略)生藤哲治

 今年で3年目。1年目は物珍しさ、初体験、いろいろな方が4時前から展示の前を通り過ぎて行った。2年目は、少し余裕、朝が待ちどうしかった。50才を越え、体力の衰えを感じた。そして3年目、どうしても仕事を休めなかったので1時30分からの警備、少しいつもの年よりも人通りが少ないような気がした。3時過ぎから西の空が光始めた。天気予報では、大雨、雷注意報。県北西部では暗雲がレーダーに写っていた。でも上空には月が出ていた。次第に雷音と光が大きくなり、2時間程テントを掛けるべきか迷った。5時前に夜が明けたが西の空は真っ黒、決断し、シートを二重に掛けた。6時に交代して家についた途端、ゴーと激しい雨が降った。テント掛けていてよかった。出勤時にはいつもの明るい日差しが・・・・・。 継続すること、伝えることはすごいエネルギーがいる。何かまたお役に立てればと、来年に思いをはせる今日この頃です。

 追伸 私の篠笛の師匠も10年近く、毎年8月6日の深夜11時半から30分程、原爆ドームの裏(東側)で鎮魂の笛を演奏しておられます。 拝