2009年8月
*徐々に増えていく予定です。
  「あの頃を振り返り」浦 精(85歳伯母)
「8/6ヒロシマ」林華江 「影絵展に参加して」山岡亮太(城北中学1年)
「影絵展に参加して」新谷 望(城北中学3年) 「影絵展に参加して」高橋龍一(城北高校1年)
「影絵を体験して」宮本天宙(なぎさ中学1年) 「影絵で伝わる」石田雅子(なぎさ高校1年)
「影絵でつながる心」岩田皆子(なぎさ高校1年) 「初めての影絵」(なぎさ中学2年)
「影絵を超えて」藤井健太(なぎさ高校2年) 影絵制作に参加して 」有木 励
「市民が紡ぐ影絵展に 」佐々木典明 ■「5年目のヒロシマ」浜崎ゆう子

「5年目のヒロシマ」

■浜崎ゆう子(影絵制作)

 小さな祈りの影絵展も今年で5年目になりました。年々広島に親しい人が増え、8月5,6日の元安橋の展示は、たくさんの人との再会の場にもなってきました。広島でお話を聞いた被爆者の方々からも、年間を通してお手紙やお電話を度々いただき、いつも励まされながらこの日を迎えています。また、ここ数年、地元の中高生たちも積極的に参加してくれるようになり、今回は生徒たちにもイメージしやすいよう「家族」というテーマを選びました。実際、生徒たちも先生方もこちらが思っている以上に多忙で、みんなで調べたり話し合ったりしながら時間をかけて作る、ということにまでは至りませんでしたが、それでも生徒たち、そして一般参加の方々が作った絵は多くの人の胸を打ったことと思います。影絵ボックス中央の切り文字にも「子供たちの笑顔が希望だった」という被爆者の言葉を入れさせてもらいましたが、まさに今現在もこのような活動に子供たちが参加し、平和に対する意識を高めることが、なによりの「希望」になるのではないでしょうか。被爆者の思いを影絵に込め、それが子どもたちの手によって広がっていく。そう思うと、ささやかなこの展示も少しは役割のようなものを担ってきた気がします。ゴホッ、ゴホッ・・・・、今回の展示では風邪をこじらさせ、大変ご迷惑をおかけいたしました・・・。

「市民が紡ぐ影絵展に」

■佐々木典明(広島のお父さん)

 「小さな祈りの影絵展」は原爆の悲惨さや苦しみを直接影絵で表現するのではなく、優しさや穏かさに和やかさで平和を訴える手法で発表されてきた。影絵展を主宰する浜崎ゆう子さんの夢はヒロシマを支える子供たちや市民が参加して、いずれ“市民の影絵展”になることだった。
 当初から幼稚園児や母親に市民の参加はあったが5回目を迎えた今年は城北、なぎさ、女学院中高校の社会・平和問題研究や演劇グループの参加が大きな支えになった。
 3回にわたるワークショップは一般市民を含めて延べ200人を超える規模になった。
 影絵制作の基礎からスタートしテーマに沿った絵探しやスケッチなどを重ね、カッティングから着色まで丁寧な指導にみんな腕をあげ、展示作品の三分の一を凌ぐ結果となった。
 ワークショップの成果がテーマに沿った形に発揮され、子供たちの中に着実に平和の芽を育んでいるのが見て取れる。
 今年も数千いや万を超える人々がこの「小さな祈りの影絵展」を見届けた。
 8月5,6日の夕方から夜の元安橋東詰めコーナーは、友人知人が全国からもやってきて「影絵」を囲んで集う「市民交流広場」に育ちつつある。
 多くの市民が参加して紡ぐ「影絵展」に発展する可能性を秘めていて、期待は大きい。

「影絵制作に参加して」

■有木 励(一般参加)

この度は影絵制作に関わらせて頂いてありがとうごさいました。影絵を作るのは初めてだったので戸惑いました。他の人達の作品を拝見させて頂きましたが、軒先に吊された干し柿、家族の服装、影や風景の表現など、どれもリアルで写真を見ているような感覚をうけ、圧倒させられました。又、この様な素晴らしい文化を後世に伝え、残していける担い手になるとともに、世界への橋渡し役になれたらよいなと感じました。また来年も参加出来たら嬉しいです。

「影絵を超えて」

■藤井健太(なぎさ高校2年)

初めて展示用の影絵を制作させてもらいました。貼ってあるのは黒い紙や和紙などなのに、それらは単なる紙としてではなく、一つの一瞬の風景として今にも動き出しそうでした。
 影絵を作るにあたって当時の髪型や服装、家などの時代背景をしっかり調べる必要がありました。けれどもそれらは調べること自体に意味があるのではなく、作る絵の中に入り込むことでようやく意味を持ち始めるのだと思います。そして出来た影絵には「いのち」があると思います。
実際にあったその一瞬を影絵で表現する。それは当時の家族や人とのつながりをよく表していました。そして現代の私たちが見失いかけている見えない豊かさがそこにあることを気づかせてくれました。
影絵は単なる絵ではなく光を当てるからこそすばらしい絵になると思います。その中で紙は紙としてではなく一つの「いのち」として見えてきます。だからこそ自分は影絵にとても感動しました。
浜崎さんをはじめ、影絵の制作に関わった人に…
  ありがとうございました。

「初めての影絵」

■石田晴菜(なぎさ中学2年)

 私は影絵づくりを行うと聞いたとき正直最初はあまり楽しみではありませんでした。なぜなら細かい作業を行うことに慣れていなかったからです。
 しかし影絵づくりに参加してみた時、最初の印象ががらりと変わりました。細かい作業ではあったものの、先輩に教わり作業を進めていくうちにすごく楽しくなりました。またそれと同時に完成した作品をより多くの人たちに見てほしいと思えるようになりました。
 展示当日思った以上に影絵のコーナーにはカメラを持った人が集まり私はとても嬉しかったし自分の作った影絵に感動しました。
 来年も影絵に参加してもっとたくさんの人たちに感動を届けたいと思いました。

「影絵でつながる心」

■岩田皆子(なぎさ高校1年)

 影絵をながめるさまざまな年代の人や外国の人を見て、言葉がわからなくても影絵で私たちの心を伝えることができると思いました。たくさんの人が同じ影絵を見て感動したり家族や平和について考えている時間が、とても新鮮に感じました。そういう時間を大切にすることが平和につながると思います。

「影絵で伝わる」

■石田雅子(なぎさ高校1年)

 影絵は文字ではなく、絵で視覚に訴えかける物なので、道を通る人たちにも自分たちの表現したかったものが伝わったと思います。ただ単に私たちの影絵の前を通る人もいたけれど、足を止めてじっと見つめてくれる人たちもいました。じっと絵を見つめてくれた人たちはだんだんと真剣な目になっており、自分たちの影絵の説明が十分に出来なかったのが残念です。しかし、昔を懐かしむような目で影絵を鑑賞し、自分の見ている影絵について気軽に質問をしてくださる方もいて、質問の受け答えを楽しくすることが出来ました。影絵の作成に参加出来なかったけれども、他校の影絵などを見ることによって、自分自身が通行人になり、新鮮な感じで影絵を見ることが出来ました。この、自分が感じた影絵に対しての気持ちが他の人にも伝わっているといいです。

「影絵を体験して」

■宮本天宙(なぎさ中学1年)

 今回生まれて初めて影絵を見たときに感じたことは、他の絵と違って光を通しているから、作ったときと影絵ではかなり違った見え方になるということです。他の絵と違って、作ったときに変でも影絵にしたら良く見えたのでかなりうれしかったです。
もともと、影絵を作ると言われたときに「日曜日にわざわざ行かなくても」と思ったけど影絵を作り始めたら楽しくやることが出来ました。影絵展ではとてもきれいに見えたので努力した甲斐があったとおもいました。このような体験ができたので影絵の作成に参加することが出来て良かったと思いました。

「影絵展「家族」に参加して」

■高橋龍一(城北高校1年)

 私達高一のグループは学校で給食が始まり、それを見に来た米軍と、子供たちが給食を食べる場面を表現しました。

 影絵はただ紙を張るだけの作業ですが、どういう色の紙を貼れば綺麗な影絵が作れるか考えなくてはいけないので、貼りつける紙も結構慎重に選ぶ必要があり、我々の作品は細かい部分も再現したので、紙を切る作業は高い精度を必要としました。そして、時間をかけて作った我々の影絵はかなり良い作品になったと思います。

 影絵展の日(8月5〜6日、元安橋東詰)、浜崎ゆう子さんやみんなで作ったそれぞれの作品を見ました。作品の元はほとんど被爆体験者から聞いたもので、その人たちの思いが描かれた作品だと思います。被爆後の、戦後の人々はどんな生活をしていたか、どういう心境だったのか、そういうことも知ることが出来ました。

 影絵を作ることも、見ることも戦争の悲惨さを学び、平和を考える一つの材料のように思います。

「影絵展「家族」に参加して」

■新谷 望(城北中学3年)

 今回僕は二回目の参加でした。今回は「家族」というテーマでした。家族は僕らには身近な存在でどのようにしようかというのは想像していました。しかし、いろいろと考えている中、僕の思っている「家族」というテーマで「平和」を本当に伝えられるものなのかどうかという疑問がありました。ただ単純にちゃぶ台を囲むというものだったと思います。やはり本当に平和を伝えるためには当時の生活や状況をわかる限り知ることが大切だと思いました。

 当日はまず、下書きから始めました。家族がちゃぶ台を囲み、食事をする風景にしました。食物は芋が少ししかない貧乏な生活なのですが、温かい家族の絆をカラフルな色で表現しました。

どんな暮らしであろうと決して負けない家族の姿には感動します。

「影絵展「家族」に参加して」

■山岡亮太(城北中学1年)

 八月五日、六日に小さな祈りの影絵展に参加しました。僕は影絵造りには参加しなかったけれど、先輩の作品が展示されていました。

 僕は、数々の作品を見ながら、テーマの「家族」という言葉がぴったりな作品がいっぱいあると思いました。そして、自分ではとても無理だと思う作品がいっぱいありましたが、もし、来年参加できたらこんな作品を作りたいと思うのもあったので良い経験になりました。

 また、これを見てくれた人々がこの今日から「平和」について、また「家族」について考えてもらえるような作品の展示展になったと思います。

「8/6ヒロシマ」

■林華江(日映アーカイブ歌手)

 今年のヒロシマ、お天気が崩れるかなぁと思ったけれど、やはり広島に着いた時には雨もやんでいました。
広島に向かう前日、有楽町の外国人記者クラブにて、中国放送制作の「The A-bomb ヒロシマで何が起こったか」の上映、会見がありました。質疑応答の後、私は今まで考えもしていなかったことを考えることになりました。「もし、今、どこかに原子爆弾が投下されたら、助けに行くことができますか?取材をしに出かけられますか?」
原子爆弾の影響が明らかになってきている今、もしあの日のヒロシマ、ナガサキと同じことが起こったら、私は動けるだろうか…。
平和ボケしているのか、被爆した広島、長崎の映像を管理させてもらっている立場にいながら、原爆のことを「過去」としてとらえられていた自分に気付きました。
ですが同時に原爆を「過去」にできるような世の中になればいいと思いました。
いつも私は結局浜崎さんの影絵を観させていただくだけでしたが、今年は浜崎さんの影絵の展示の準備を少しだけ手伝うことができました。ぱっと見ると、二次元の絵ですが、裏は三次元!あの影絵の深みはほんとの深さだったんですね!
6日はたくさんの方々がお手伝いにいらっしゃっていて、活気を感じました。浜崎さんのお人柄ですね。これからもどんどん拡がっていくことを願います。

「あの頃を振り返り」

■浦 精(85歳伯母)

 東京で影絵を制作している姪のゆう子が、今年も8月6日、広島の原爆記念日に原爆で亡くなられた方々の追悼慰霊で影絵展を開くというので、嫁や娘達と博多駅から新幹線で広島に行ってまいりました。元安橋の袂です。
 
 昭和19年、戦争はだんだん激しくなりました。福岡空襲の時は、西区の藤崎に住んでいましたが、お隣に焼夷弾が落ちて、母は妹を(当時4歳、後のゆう子の母)私は病気の姉を背負って近くの皿山に逃れました。我が家が焼けていくのを振り返って見るとただただ恐ろしく夢中でした。普段防空演習のバケツリレーでは、ワッショイワッショイとかけ声をかけていましたが、幼い妹は訓練と同じ様に思ったのか、母の背からかわいい声でワッショイワッショイと言うので、その声にふと安らいだ気持ちになったのを覚えています。上の姉は19歳、母に寄り添い母娘5人で皿山の防空壕に逃げ込みました。2、3日して熊本の伯父の所に行くことになり、防空壕を出て、焼けている福岡の街を通って博多駅まで行き、たくさんの人混みに交じってやっと汽車に乗りました。村長をしていた伯父の大きな家にも熊本市の空襲、長崎の原爆で被災した家族が次々と帰って来たため、私共5人は近くの農家のお座敷を間借りしながら住居を探し、やがて親切な知人の家に引っ越しました。
 
 この頃広島、長崎と次々に落とされたという原子爆弾は今までにない悲惨な空襲だったという噂を耳にし、不安な日々を過ごしていました。間もなく8月15日に天皇陛下の詔勅がラジオで放送されました。壊れかけたラジオから流れる声で終戦になったと理解できた時は、心からほっと致しました。その日外地に居る生死もわからない父や弟、叔父叔母達が無事に帰って来るようにと祈りました。町の役場から戦災家族ということで、近くにあった太刀洗飛行場の跡地を六畋分けて戴きました。母や妹たちと畑を耕し、野菜や陸稲やさつま芋なお植えて、収穫を楽しみ飢えを凌ぎました。
 
 終戦から半世紀経った現在は、戦争を知らない多くの人々が物心両面にも恵まれ、平和に楽しく暮らす毎日です。日本の中で一番悲惨な想い出の広島で、やさしい想いやり深いゆう子の影絵を前に、御霊よ安らかにと祈ります。そして立派に焦土から立ち上がり、力強く明るく生きる広島の人々、家族が、守られ発展していくことを念じます。
 
 今度で広島の展示を見に行くのは三度目になりました。度毎に穏やかに暮れなずむ夜空から、まるで悲しみから立ち上がった方々の息吹が聞こえてくるように、影絵展の回りに三三五五たくさんの人々が集まって来て、野外影絵展は夜半十時過ぎまで続きました。私もお供のお茶を少し用意して行きましたが、来年はまたお接待のお茶も皆さんに差し上げられたらとも念じました。今後二度とあってはならない戦争。日本の国だけではなく世界中が平和で幸せに満ちる地球であって欲しいと希い(こいねがい)ます。