ヒロシマ小さな祈りの影絵展2011「ある少女のなつかしい思い出」(最終回) |
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今年の展示は、被爆者・久保美津子さんの思い出を影絵にしました。 影絵制作にあたっては、久保さんから直接お話を聞くとともに、著書を参考にさせていただきました。 |
<お菓子屋>(広島女学院高校制作) 戦前の段原通りには、とても洒落た洋風のお菓子屋さんがありました。店内には甘い香りが漂っていて、子どもたちの欲しいものばかりが並んでいました。美津子さんも小遣いの5銭を貯め、板チョコやゼリービーンズを買いました。 |
<帰り道>(市民共同制作) 美津子さんのお母さんは働いていて、美津子さんと弟の信一さんは、いつもお祖父さんに夕食を作ってもらっていました。それでも夕暮れ時になると、お母さんが恋しくなります。二人はどうしても待ちきれず、宇品線の駅までお母さんを迎えに行っては、3人並んで帰りました。 |
<活動写真>(個人制作) |
<ろう石遊び>(広島女学院高校制作) 迷路のような路地は、子どもたちの格好の遊び場でした。美津子さんは、ろう石で黒土に家の見取図のようなものを描き、自分の部屋を決め、次々と部屋を増やしていく、というような遊びをよくしたそうです。夢中になって、はっと気がつくと、夕食の時間になっていたことも度々あったといいます。 |
<貸本屋>(広島城北高校制作) 段原に貸本屋さんができた時のことは、忘れられないそうです。貸本屋さんでは、当時5銭で、2冊の本を借りることができました。読書が好きだった美津子さんは、分厚い本を何冊も借りて読みふけたそうです。 |
<化粧品屋>(市民共同制作) 段原通りには、化粧品を売る店もありました。そのお店には、美しい姉妹とハンサムなお兄さんがいました。美津子さんは、子ども心にも、自分とくらべてその兄妹の美しい顔立ちに、不公平過ぎる!と思ったそうです。 |
<斜面をすべる子どもたち>(広島城北中学・高校制作) 比治山・南側の赤土の斜面では、子どもたちが笹を敷き、滑って遊んでいました。やんちゃだった美津子さんも、よく男子にまじってこの遊びを楽しんだそうです。この場所も、きれいに整備され、今では子どもたちが立ち入ることはできません。 |
<夜店>(東京チーム制作) 昭和8年頃。段原の表通りには、夜店が並ぶ縁日がありました。いつも仕事で地方にいて、めったに帰って来ないお父さんが、美津子さんをその縁日に連れて行ってくれました。薬屋さんの出店に飾られていた人体模型が、幼い美津子さんはとても好きだった そうです。 |
<金魚>(市民共同制作) 美津子さんの家のそばには、金魚屋の金網が続いていました。夏になるとセメントで造られた四角い浅い池に、赤や白、黒色をした金魚や鯉の稚魚たちが、太陽に照らされて、きらきらと光りながら、泳いでいたそうです。池の上を渡る風は、美津子さんをやさしい気持ちにさせてくれました。 |
<八百屋>(広島城北高校制作) 段原通りにあった八百屋です。美津子さんと同級生の男の子がいたそうです。しかし、買いものにいっても、その子は店には出てこないので、言葉を交わすことはありませんでした。もしかしたら美津子さんは、その男の子としゃべりたかったのかもしれません。 |
<教会の宣伝隊>(個人制作) 比治山寄りの広場には、日曜日になるとナザレン教会の宣伝隊がやってきました。テントを張って、太鼓とアコーデオンの伴奏で、子どもたちに讃美歌を教え、キリストの話をしたそうです。宣伝隊は、呼び込みのため、楽器を演奏しながら町を行進し、子どもたちは、それが嬉しくて、いつもついていったそうです。キリストの話は忘れてしまったけれど、歌は今でも覚えていると美津子さんは言います。 |
<銭湯>(広島城北高校制作) 銭湯に弟の信一さんを連れていくのは、美津子さんの役目でした。信一さんの背中をせっせと流し、肩まで浸かって十数えてから湯船を出る、ということも教えてあげました。そばで見ているおばさんたちが、いつも感心していたそうです。 |
<あかいくつ>(市民共同制作) 戦前、戦中、戦後、と、両親が仕事でそばにいなかった美津子さんでしたが、大好きな歌を歌っていれば、不思議と寂しくなかったそうです。部屋で寝そべり、お腹がすいたなぁと思った時も、歌を歌って、空腹感をまぎらわしていました。ずっと元気で生きてこられたのは、歌を歌い続けてきたからかもしれない、と美津子さんは言います。 |
<夜空>(市民共同制作) これは、原爆投下後の思い出です。原爆で大けがをおった美津子さんと弟の信一さんは、ダイハチ車に乗せられ、親戚の住む田舎へと運ばれて行きました。田んぼのあぜ道を通る車の上で、仰向けになっていた美津子さんは、稲穂がトンネルのように頭(こうべ)を垂れ、その先に見える星がとてもきれいだったのを覚えているといいます。怪我の不安や、町を離れた安堵感も重なり、なんとも言えない気持ちだったそうです。 |
<アイスキャンディー>(広島なぎさ中学・高校制作) 夏のある日、お客さんが来たのでアイスキャンディーを買ってくれるように言われた美津子さんは、お祖父さんから渡されたお金で買えるだけのアイスを買いこんで帰ってきました。てっきりお釣りをもらってくると思っていたお祖父さんは、その数にとても驚いたものの、怒ることなくアイスを近所に配ったそうです。 |
<夕暮れの小路>(広島なぎさ中学・高校制作) 夏休みになると、弟の信一さんは、小路と呼ばれる家と家の隙間に、机を持ち込み、宿題をやっていました。美津子さんも勉強や読書をよくそこでしていました。小路の向こうに見える空が、夕日で茜色に染まったある日、それがあまりにきれいだったので、弟と二人で「この空をずっと覚えていようね」と言い合ったことがあるそうです。弟とのあの美しい思い出と、原爆への憎しみが、美津子さんの心の中で、今でも重なり続けています。 |
「歌を歌いながら」(市民共同制作) 歌が大好きだった少女。かつて広島には、そんな少女がたくさんいたかもしれません。 |
「私の好きなもの」(市民共同制作) 昔の女の子は、どんなものが好きだったでしょう?今の女の子と同じでしょうか? |
「大好きなお母さんとの思い出」(市民共同制作) 桜の花びらが舞う中を、お母さんと一緒に歩きます。ただそれだけで、幸せなのです。 |
「いのち・へいわ」(ゲーンズ幼稚園制作) 「爆弾が落ちた時にはお空が真っ黒になって、お日さまも、お星さまも見えなくなったんだって」「じゃあ、お日さまがあったり、お星さまが夜見えたりするのも平和だね」「動物が元気で生きられるのも平和だと思う」「爆弾が落ちた後、草やお花が咲いたのを見てみんなが元気になったから、草やお花がいっぱいなのも平和」。それぞれの思いが、小さな手によって形になりました。 |
「ある少女のなつかしい思い出」(洋行幼稚園制作) 子どもたちは被爆した少女に心を寄せながら、「どうか平和が続きますように」との祈りを込めて形にしました。 |
「へいわをまもるひとになりまーす」(フレーザー幼稚園制作)子どもたちは「神様がつくられた命が、うれしい気持ちでいっぱいになれる世界がいい」と言い、「平和をまもる人になる」と目を輝かせています。原爆で亡くなった人にどんなプレゼントを贈ったら喜んでくださるか一生懸命考えて作りました。 |
<主な参加者> ●小さな祈りの影絵展実行委員会 |
<8月5・6日インフォメーション> <無事終了しました> |
小さな祈りの影絵展2011年「ある少女のなつかしい思い出」8月5・6日の野外展示は無事終了いたしました。 巡回展示も終了しました。 |
2011年11月11日〜 | 広島なぎさ中学高等学校 |
2011年9月26日〜 | 広島女学院中学高等学校 |
2011年9月22日〜 | 広島城北中学高等学校 |
2011年8月7日〜 | フレーザー幼稚園 |