岩波映画カメラの物語

Story of Iwanami Movie Camera

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「時を記録する映画カメラ」
岩波映画のフィルムカメラから

今は無い岩波映画製作所(以下岩波映画)は、日本を代表する記録映画プロダクションとして多くの名作と人材を生み出しました。この度、1949年の創業から1980年代までに実際に同社で使われていた撮影カメラを元社長・藤瀬季彦(ふじせ・すえひこ)氏のご遺族から寄贈されました。

これらはフィルムを使う映画カメラで、撮影時に大きな回転音がしました。1980年ごろからビデオ機材が普及すると、急速に姿を消していきました。

映画アーカイブというと完成した作品が注目されますが、台本や写真、関係者の証言と同様に、撮影カメラも、映画の歴史を伝える重要な史料です。

映画づくりは、多くのスタッフの力によって完成します。このシリーズでは、岩波映画では様々なカメラを使用して名作を生み出してきた歴史を紹介します。

寄贈されたカメラ機材とカメラマンにスポットを当て、全11回にわたり順次紹介します。なお、これらのカメラ機材は現在、国立映画アーカイブで保存されています。

「時を記録する映画カメラ」ポスター

アイモ 1
35ミリカメラ / アメリカ・ベルハウエル社

「アイモ」はバネ駆動式35mmのハンディムービーカメラ。軽量で機動性に優れているため、戦前から軍用、ドキュメント、ニュース映画等の撮影に活躍し、貴重な映像を残している。後にモーター駆動ができるタイプが追加された。

「アイモ」35ミリ
「アイモ」35ミリ

「アイモ」は岩波映画の代表作『佐久間ダム 第一部』(1953~54)撮影は小村静夫らが使用した。100フィートで1分しか撮影出来なかった。創業当時は「アイモ」の他、「パルボ」も使用していた。

佐久間ダムの撮影現場
佐久間ダム・現場での撮影

『佐久間ダム』は長編の記録映画で、戦後初めて 35ミリカラーフィルムで撮影された。低感度(ASA25)で、カメラマンも現像所も初めての経験で苦労した作品。岩波映画は『佐久間ダム』でスタートアップに成功し、急成長していく。

『佐久間ダム第一部』台本
『佐久間ダム第一部』台本

アイモ 2
35ミリカメラ / アメリカ・ベルハウエル社

1958年、岩波映画を代表する女性監督、時枝俊江と羽田澄子はほぼ同時にデビューした。時枝監督は「アイモ」に外付けの400フィートマガジンを付けた電動駆動機種で『町の政治』(1958年)(撮影 藤瀬季彦)を完成した。

400フィートマガジンを付けた「アイモ」
400フィートマガジンを付けた「アイモ」

当初、藤瀬カメラマンは「パルボ」に防音のため毛布を掛けて撮影していたが、身動きが出来ないのでアイモに変えて撮影した。

左・時枝俊江 中・藤瀬季彦 右・竹内亮
左・時枝俊江 中・藤瀬季彦 右・竹内亮

このカメラは同時録音が出来なかったので同じシーンを、もう一度録音用に再現してもらい、テープに録音した。撮影後、編集時に画と音を合わせるのは時間がかかる大変な作業だった。

『町の政治』台本
『町の政治』 台本

アリフレックス 1
  35ミリカメラ / 西ドイツ・アーノルド&リヒター社

「アリフレックス」は第二次世界大戦中ドイツの従軍用として開発されたカメラ。バッテリー駆動で交換式に200フィート、400フィートのマガジンが付けられる。コンパクトボディで回転ミラーレフレックスが特徴の一眼レフカメラ。

アリフレックス 35mm
アリフレックス 35mmカメラ

羽仁進監督の強い希望で購入。『教室の子供たち』(1954年)の時、岩波映画の撮影・小村静夫が初めて使用した。

教室の子供たち 撮影風景
『教室の子供たち』の撮影現場

カメラの回転音を防ぐため、小村は毛布をかけて撮影した。この後も羽仁進監督とコンビで『絵を描く子どもたち』『双生児学級』もこのカメラで撮影した。

毛布をかけて撮影する小村静夫
カメラの回転音を防ぐため毛布をかけて撮影する小村静夫

岩波映画では1950年代初期まで、カメラは重く機動性のない「パルボ」や軽量な「アイモ」が主力だったが、この作品以降は機動性のある「アリフレックス」に移行していった。

アリフレックス 2
35ミリカメラ / 西ドイツ・アーノルド&リヒター社

一方、羽田澄子監督は農村の女性をテーマにした『村の婦人学級』(1958年)を演出、撮影の小村静夫はアリフレックス 35ミリカメラで撮影した。

村の婦人学級 撮影現場
『村の婦人学級』の撮影(カメラ右が羽田澄子監督)

この頃の 35 ミリ映画の撮影のスタッフ編成は制作部1名、演出部 2 名、撮影部 2 名、車両1名の5~6人態勢だが、テーマにより照明部や録音部が追加され、兼任する場合があった。

雪原での撮影
屋外での厳しいロケーション
私たちの村の婦人学級 台本
『村の婦人学級』台本

アリフレックス 16ST
16ミリカメラ / 西ドイツ・アーノルド&リヒター社

「アリフレックス 16ST」は 100 フィートフィルムを日中装填ができ、400 フィートマガジンを取り付けが可能。カメラは外からの 12V バッテリーで駆動、回転スピードも 8~48 駒の範囲で変えられた。同時録音以外の撮影ではスタンダードなカメラで、多くの TV 番組、記録映像、PR 映画等で使用された。

アリフレックス16ST
「アリフレックス 16ST」 400フィートマガジン付
たのしい科学 タイトル
『たのしい科学』タイトル
橋のしくみ 撮影
『橋のしくみ』 演出・矢部正男 撮影・冨沢昌一
真空の科学 撮影
『真空の科学』 演出・合田寛 撮影・山崎義炬

オーリコン プロ 600 スペシャル
16ミリカメラ / アメリカ・オーリコン社

オーリコンは1950年代によりノイズレス化が図られたカメラとして製造された。電源はACで16ミリドラマなどの同時録音、インタビュー撮影等に使用された。

オーリコン カメラ
「オーリコン」16ミリカメラ

「たのしい科学」は理科実験撮影が多いため, コマ撮り(タイムラプス)撮影ができるタイプのカメラが使用された。スタッフ編成は4班体制で、各班監督、助監督、撮影、撮影助手、実験班の5名編成で、製作期間は1ヶ月間と厳しい製作条件であった。

流れいく大陸
『流れいく大陸』 演出・片野満 撮影・小泉清

「たのしい科学」を担当した主なカメラマン:
中山正治 (30話)、斎藤英二 (24話)、岡田久 (21話)、根岸栄 (20話)、今野敬一 (19話)、竹内亮 (18話)、奥村祐治 (14話) ら。

電子をはこぶ原子イオン
『電子をはこぶ原子』
演出・田原総一朗 撮影・斎藤英二

シネコダック スペシャル Ⅱ
16ミリカメラ / アメリカ・コダック社

「シネコダック」は 1947 年から1961年までアメリカのコダック社が発売。戦前に家庭用として発売されたカメラを高機能化したプロ用モデル。上部に取り付けられたパイプはフォーカスを確認するためのファインダー。ウォルト・ディズニーも短編映画で使用した。

シネコダック スペシャルⅡ 側面
シネコダック スペシャル 側面

「日本文化シリーズ-年輪の秘密-」(17分)はフジテレビの開局番組として1959年12月から1年間48回放送された。スタッフ編成は演出部2名,撮影部2名の計4名が基準で、撮影期間は7日間であった。極端な場合はカメラマンが演出を兼ね、撮影助手が助監督を兼ねた例もあった。

シリーズの主なカメラマン:
清水一彦 (13話)、金宇満司 (10話)、長野重一 (5話)、狩谷篤 (4話) など。

シネコダック スペシャルⅡ 正面
シネコダック スペシャル 正面

当時、映画フィルムは高額で16ミリ100フィート(3分)が初任給と同じ1万円した。1作品に使えるフィルム使用許容は4~5倍だったので1カット毎に緊張感のある撮影だった。岩波映画にはこれまで映画界にあった徒弟制度がなく、助手たちは忙しく数多い製作現場で鍛えられ、通常10年以上かかると言われる助手からカメラマンへの道を数年で1本立ちさせていた。

年輪の秘密 鷹匠 パンフレット
『年輪の秘密シリーズ 鷹匠』台本

フィルモ 70-DR
16ミリカメラ / アメリカ・ベルハウエル社

「フィルモ」は 16 ミリ撮影カメラ。35 ミリ 100 フィート巻のフィルムを使用し、400 フィートのマガジンを搭載することも可能であった。ゼンマイばねによる手回し駆動が、標準仕様。

フィルモ 70-DR 側面
フィルモ 70-DR 側面
フィルモ 70-DR 正面
フィルモ 70-DR 正面

『日本発見シリーズ』は 1961 年 6 月から日本教育テレビ(現テレビ朝日)毎週日曜日の午前 10 時から 48 話が放送された。このシリーズで多くの新人カメラマンとベテランカメラマンが組んで、様々なカメラを使用して昭和 30 年代の日本各地の姿を記録した。奥村祐治は『和歌山県』で「フィルモ」、一方ベテランの瀬川順一は『愛知県』で慣れた「アイモ」を使用した。

シリーズの主なカメラマン:
奥村祐治 (10県)、鈴木達夫 (7県)、根岸栄 (4県)、三角善四郎 (4県) など。

日本発見シリーズ 沖縄県 撮影現場
『沖縄県』(演出・藤久真彦 撮影・奥村祐治)
『日本発見シリーズ・秋田県』台本
『日本発見シリーズ・秋田県』台本

カメフレックス
35ミリカメラ / フランス・エクレール社

「カメフレックス」は簡単にフィルム交換ができるなど革新的な設計で、フランスのヌーヴェルヴァーグの作品で主要な位置を占めたカメラ。すばやい交換が要求されるドキュメンタリーの製作でも多く使用された。

カメフレックス 正面
カメフレックス 正面
カメフレックス 側面
カメフレックス 側面

1960 年代に入ると新人カメラマンたちが製鉄や造船など基幹産業の撮影で活躍し始めた。『出光丸』の撮影はカメフレックスにアナモフィックスレンズを付けて、劇場上映に対応した横長のシネスコ画面にしている。

日本人の誇り 出光丸
『出光丸』 1967年 (演出・田中実 撮影・竹内亮)

また、この頃から、多くのスタッフが岩波映画から「卒業」して外に出ていった。岩波映画を離れた黒木和雄、土本典昭、鈴木達夫らは、1969 年に製作された劇映画『キューバの恋人』の撮影に岩波映画から借りた、このカメフレックスを使用した。

若いゝのち 撮影風景
『若いゝのち』 1963年 (左から小川紳介、奥村祐治、秋山矜一)

岩波映画のカメラマンたち

岩波映画のカメラマンは戦前からの吉野馨治、小口禎三、吉田六郎と、創立後入社した小村静夫、藤瀬季彦、加藤公彦、そして彼らの助手だったあと、一本立ちした新人たちから構成されていた。その数は合計 100 人以上いたと思われる。

吉野馨治
吉野馨治
吉田六郎
吉田六郎
藤瀬季彦
藤瀬季彦
小村静夫
小村静夫
加藤公彦
加藤公彦
清水一彦
清水一彦
奥村祐治
奥村祐治
竹内 亮
竹内 亮
今野敬一
今野敬一
西山東男
西山東男
根岸 栄
根岸 栄
三角善四郎
三角善四郎
西尾 清
西尾 清
鈴木達夫
鈴木達夫
金宇満司
金宇満司

カメラレンズ

映画の撮影カメラはシーンごとに広角から望遠レンズまで、その都度交換して使い分ける。1 つのレンズで広角から望遠までをカバーできるズームレンズも多用された。レンズの選択によって、映像の表現は大きく変わる。

カメラレンズ群
実際に使われていた様々なレンズ

岩波映画は 1998 年 12 月に倒産するまで 48 年間に 4000 本以上のフィルム作品を製作した。その内、約 3700 本の原版は国立映画アーカイブで保存されている。それらの作品を撮影したカメラやレンズに残された当時の矢印や傷に、青春時代を懸けて撮影した人々の映画に懸けた思いが残されている。

*文中の写真・台本は岩波映画 OB からの寄贈品から使用させて頂きました。

出典・参考文献:
岩波映画 OB オーラルヒストリー集
『映像をつくる人と企業』草壁久四郎 みずうみ書房 1980年
岩波映画『波の会』名簿 1986版

編集:一般社団法人 記録映画保存センター 2026年

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